最近の私







◎6月 引っ越しました 


いろんなことが大きく変わった。
その上それは、日々さらに目紛しく変化していて
なにが変わったのか説明するのが難しい。
すごい早さで変化していくので言葉が追っつかない。
ひさしぶりに、ぐるぐるいろんなものが渦巻いているかんじがする。
あまりにぐるぐるしていて、まとまらないので、
結果として表面的には変化は見えないかもしれない。

一ヶ月以上経つというのに、部屋には段ボール箱がまだ36個もある。
でも引っ越しのとき書いた、紙に段ボール箱62個の番号と
中味を詳細に書いたメモがあるので、すぐ物が探し出せて案外便利。
なにかものが必要になると、メモを見ては箱から取り出している。
これでけっこう生活できるのだから、なければないで、
なんとかなるものだと思った。
持ち物が少ないと楽だ。

何度も見る夢がある。
ひとつは、急いでどこかに電話をかけようとしているのに、
番号がすごく長くて、何度やっても間違ってしまい、
永遠にかけられないという夢。
もうひとつは、どこかにでかけようとしてすごく急いでいるのに、
持ち物をあれやこれ準備していて、永遠に支度が終らないという夢。
長期旅行の荷物を用意するような、すごくたいへんな感じ。
急いでいるのに持ち物がなんやかんやある自分に嫌気がさしている。
まるで人生みたい。
やる前にあれやこれや考えるのが好きで、
それが大きくなりすぎると次第に負担になりはじめて気重になり、
やる前にすでに疲れてしまう。
仕舞いにはめんどくさくなって、考えただけで終るという始末。
なるべく身軽にシンプルでいたいのに、付属しているものが
ガチャガチャしてる。

引っ越しを期に環境を快適にしたい。
でもあまりにやることがたくさんあって、
考えると気重になってなかなか進まない。
気持ちだけ焦って、なにもしてないのにいつも忙しい気分。
早くすべてが整理されて快適な環境の中で優雅に過ごしたい。
でも環境の変化で自分の内面もどんどん変化しているので、
どういう方向に整理したいのかまとまらない。
こうやって頭で考えるから疲れちゃってやる気が失せるんだな。
目についたとこ、気がついたところから、ひとつづつやっていけばいいのだ。
よく考えたら三度の引っ越しで、ずいぶん自分らしい環境に
近づいてきた気がする。
自分の核に近づくために過ごしやすい自分の環境を作る。
その行方は自分にしかわからず、結末は自分にもわからない。

自分が変わると自然とそれをとりまく環境も変わるんだと思っていたけど、
環境が変わったら、自分が変わった。
片付いてはいないけど、内面的には100キロくらい進んだ感じ。
いろいろ新しいものが見えてきた。





◎3月 動きます 


だんだん春らしくなってきました。
梅の花もちらほら見かけます。
春といったら、卒業式や、入学式、転勤、なんやらかんやら
新しいことがぞくぞく始まります。
どの季節もすきな私ですが、なんか意味もなくウキウキして
自然にやる気もみなぎってくる春はとくにすきです。
暖かくなって朝も起きやすく、外出もしやすく、動きやすい、
いや、じっとしているほうが返ってつらいくらいで、
出上精のわたしが、この季節は体のほうから活動的になってくれます。

とはいっても学生時代は、新学期があるこの季節は、
なんと憂鬱で気が重かったことか。
やっと慣れたクラスと別れ、どの先生が担任になるかとか
また一学年上がって勉強が増えるとか、受験が近づいてくるとか、
義務とか将来とかいう言葉がのしかかってくる学生生活。
春はそんなウキウキしたもんじゃなかった。
自分がどうなっているのか、どこにいるのか、なにがなんだかわからず、
わかっていないということすら、わかっていなかった。
自分のすきなように動けない苦しさ。
要するに、主体性がなかったんだな、わたし。
もやもやと、ただ地味〜な苦しみを味わっていた。
今でもそんな状況に陥ることはあるけど、あの時代に比べると雲泥の差だ。
いやー、今あの時代に戻らなくていいなんて、なんて幸せなんだーーー!
自由だーーー!

そんな中、長年住み慣れた場所を離れ、引越しすることにしました。
といっても1キロと離れていない場所です。
でも住処を移動するということは、いろんなものを片付けられるということで、
心機一転するにはいいきっかけになります。
新しい気分で始めるのは気持ち良さそう。
引越は来月なのですが、少しずつ片づけを始めたり、
長年お世話になった部屋の大掃除をしたり、
新しい部屋の間取りを眺めニタニタしながら空想の世界に浸っております。
といっても7年も住んでいた我が家、別れるとなると寂しいもので
決めた途端、ちょっと気がめいっていました。
ほんとに離れるのかー、二度とこの部屋で夏を迎えることはないのかー、
などと思っていると、人生というのは同じ状況がずっと続くことは
ないんだと、ひとり感慨にふけりました。
だって、明日もあるって思っていた部屋がなくなるんですよ。
いや、部屋はある、私がいなくなるだけで。
あまりにも居心地がよくてずーっと続くと思っていました。
でも反対にそうだとしたら、息苦しくなっていたかもしれません。
自分で決めたから、今まではずーっと動かなかったし、
自分で決めたから、動くことになった。
年を重ね、状況が変わり、環境を変える。
環境を変えるために移動する。
自分の決めたことが、自分の人生を作っていくんですねぇ。
さあ、動くぞぅーーー。





◎2月 旅に出ていました 


すっかりご無沙汰してしまいごめんなさい。
なかなか更新されないのにもめげず、何度も来ていただいた方、
ありがとうございます。
1月は半月間休みをとり、ニュージーランドに行ってきました。
初めての南半球で、初めての南十字星を見ました。
私は南半球でのみ見ることができるさそり座なのですが、
あいにく、どれがさそり座なのかわかりませんでした。
紫外線は日本の7倊だそうで、帽子をかぶって完全防備していたのに、
たった数分、肩が出ていたとこがジリジリと焼け滞在中にむけました。
太陽光線が強いので、害虫が少ないらしく、ほとんど農薬を使わない野菜は
うまみが凝縮されてすごくおいしいかったです。
先住民マオリが築き上げてきた文化が、踊りや彫刻や入れ墨に残っていて、
マオリ語が語源になっている地吊がたくさんありました。
国内最高峰3754mのマウントクックの麓で、14キロのトレッキングをして、
氷塊が浮かぶ氷河湖を見ました。
南半球最大級のタスマン氷河では、ガイドさんの案内でボートに乗って、
湖面にそそり立つ氷山の断面を観察しました。
氷山は、氷河から流れ出した氷の塊のことで、その90%は水面下にあるそうです。
今見ているのは、氷山のたった10%、だから氷山の一角です。
融けていくとバランスが変わって氷が回転します。
もうすぐ回転する氷山は、水面近くの色が上部と違うので、
側面が傾きだしていることがわかるそうです。
大きな氷山になるとちょっとした津波も起こるほどすさまじいものだそう。
と、ガイドさんが説明していた矢先、氷山が動いていると他のボートから無線連絡!
ガイドさんがすごい勢いでボートを操縦し、その氷山に駆けつけたとたん、
くじらほどの大きさの氷塊が傾き出し、ゆっくりとひっくり返り、
すさまじい大きさの水面下にあった氷塊が表われたのです。
氷山の一角という言葉の意味を、肌で感じました。
その氷塊は大きな波をつくり、私たちの乗ったボートのすぐ手前まで
押し寄せてきました。
この仕事をして2年になるガイドさんも初めてという貴重な体験でした。
約500年の間、水面下にあった氷の密度は高く空気を含んでいないので、
とても深いブルーグリーン色です。
1時間もすると空気が入り、他の氷山と同じ白になります。
ボートの近くに流れてきた、まだ青々した500年前の氷をがりがりと食べました。

大自然を満喫して帰国した翌々日は、美術同人誌『四月と十月』の古墳部研究旅行で
出雲の旅へ出掛けました。
テーマは弥生時代。
車で走行中、虹の出迎えにはじまり、八重垣神社、神魂神社、出雲大社では、
体のすみずみまで洗われるような光のシャワーを感じました。
一カ所から39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡、銅剣が358本も出土した
荒神谷遺跡、四隅突出古墳など、弥生時代に思いをはせました。
こうして旅することで、今そこに住んでいる人、その昔そこに住んでいた人と
出会うことは(残されたものを通して)、奇跡のような気がします。
私がそこに行くという流れになって、日常を離れてわざわざ訪れたことで
出会うわけだけれど、自分の場を離れなければ出会うことはないわけで、
そしてまた戻ってくればもう二度と会うことはないかもしれなくて、
そんなことを考えるとなんかすごいーと思うわけです。
近所を歩いたり自転車や電車に乗ったりしていても、そう思うことがあります。
今、すれ違った人とは生まれて初めて会うけど、もう二度と会うことはない、
なんかドキドキしませんか。
けっきょく、毎日こうして旅をしているんですね。




2007年


◎12月 よいお年を 


忘年会で友人のアトリエにいったら、 こんな言葉が貼ってありました。
私もまねして貼っています。
よいお年を。



どんな時も、人生には、意味がある。
どんな人のどんな人生にも、意味がある。
この世に命のある限り、あなたには満たすべき意味、
実現すべき使命が、必ず与えられている。
たとえ、あなたが気がついていなくても、
それは、あなたの足元に、常に既に送り届けられているのだ。
この世のどこかに、あなたを必要としている『何か』があり、
あなたを必要としている『誰か』がいる。
そしてその『何か』や『誰か』の為に、あなたは出来ることがある。
その『何か』や『誰か』は、あなたに発見されるのを待っているのだ。
だから、この人生で起こるすべてのことを
―たとえどんなにつらいことでも―意味あること、
必要だから起こったこととして受け止めよ。
その『何か』は、あなたに大切なことを気づかせてくれる
メッセージを含んでいるはずだから。

心理学者 フランクル  の言葉




◎11月 私の師匠について 


私は大学を卒業してすぐサン・アドという広告制作会社にはいった。
きっかけは大学4年の夏、葛西薫というアートディレクターに
作品を見てもらいたくて会社宛に手紙を送ったことだ。
葛西さんは忙しい合間をぬって会ってくれた。
作品ファイルをていねいにおもしろがって見てくれて、
学生の私と同じ目線で話をしてくれた。
気づいたら私も作品についてぺらぺらと話し、
未知の世界の広告についていろんなことを質問していた。
その年末、サン・アドで急遽デザイナーの募集をするという連絡を受け、
再び作品を持って面接に行った。
そしたらまさか入れると思わなかったサン・アドに入社することになった。
葛西さんは紙の上で手品師がパズルでもするかのように、
文字や写真を動かして次々に美しい画面を作り出した。
それは大げさな話ではなく、例えばデザインの最終段階で
クライアントから無謀な注文を受け、もうどうやっても
いいデザインにはならないと投げ出しそうな場面でも、
まるでMr.マリックがデザイナーになったみたいに、
葛西さんが文字や写真の大きさ、配置を変えると、再び息を吹き返し、
紙面が生き生きと輝き出すのだ。
私はそれを10年間、まるで催眠術にかかったみたい眺めていた。
ちなみに葛西さんはほんとの手品も上手で、よく得意そうに見せてくれた。
そしてそのあと、こういうやけに器用なとこがいやなんだよなーと呟いていた。
葛西さんの話にも引き込まれた。
打ち合わせでの話、クライアントへのプレゼンテーションでの話、
仕事帰りの電車の中(帰る方向が同じだった)スケッチ手帖をめくりながらする
構想中のデザインの話、いつもワクワクしながら聞いていた。
出会いから20年、今もあの初めて会ったときと変わらず、
いつも前に進んでいる葛西さんがいる。
広告やデザインについてよくわかっていなかったあの頃より、
今のほうがもっと大きな存在になっていると思う。
教わったことはデザインという枠を超えて、もの作りの考え方、
しいては生き方にまで大きく作用し、独り立ちしてからの私を
いつも支えてくれて、後押ししてくれた。
それはもう感謝してもしきれないほど大っきすぎて、
考えただけでもあわあわする。
今、その師匠、葛西薫34年間の仕事の展覧会がクリエーションギャラリーG8と
ガーディアン・ガーデンの2会場で行われている。
19歳のころのレタリングから、仕事のための数々のアイデアスケッチまで
丸出しのよだれが出るほどたのしい展示だ。
まるで脳みそを覗いているよう。
つい先日、またはっとさせられることがあった。
なにもアイデアが浮かばなくても、紙の上にただ線をおけばいい。
そうすると紙に描かれたその線から次が始まっていく。
そうやってただ手を動かすことがたのしい。
だからいつも自分がやっていることは、なにか作りだすというよりも、
作業という感覚に近い。
その作業自体がたのしいと葛西さんはいった。
行き詰って考え込んでしまうたちの私は、そんなとき真っ白な中から
何かを生み出すような強迫観念にも似た気分になる。
でも生み出すなんて大それたことでなく、
ただ手を動かすことなんだと気づかされた。
生み出すというのはやる前にある言葉ではなくて、
やった結果ある言葉(生み出された)なんだと知った。
作業だ、作業。
そう、描く前は上安でも描き出すとたのしい。

オープニングパーティのあいさつではこんなこともいっていた。
自分は宇宙から見ればちっぽけなカケラなんだと気づいたら、
何をやっても大丈夫と思えて気が楽になった。
いくつになっても私の師匠、葛西さんありがとうございます。
丸出し展覧会おめでとうございます。




◎9月 月のちから 


中秋の吊月、見ましたか。
私は新幹線の中から見ました。
今年は9月25日、まんまるお月さんが輝いていました。
この季節、台風や秋の長雨の時期なので、
満月が見れる率は低いそうです。
だから今年はラッキーです。
私は月好きです。
昔からではありません。
あるときから好きになりました。
体調が悪くて夜中によく目が覚めて、
眠たいのに寝れないという辛い日々が
続いたときのことです。
ふと窓を開けてみたら、空に月がありました。
それをじーっと見つめていたら、夜空にこうして月があるのが
すごく上思議に思えてきました。
当たり前のように見ていたけれど、
もし月がないのが普通という世界にいたとして、
突然、夜空にこんな金色に輝く月が出没したら
どんなにびっくりするだろう。
美しいと思うより、恐怖と上安におののくかも。
そんな風に、突然出没したと想像して見ていたら、
ものすごいものを見ている気分が盛り上がって、 心臓がバクバクしてきました。
ちょっとくさいけど、奇跡というものを感じました。
それ以来、夜中に目が覚めると必ず窓を開けて月を探します。
満月は宇宙からの贈り物だと思います。
満月をじーっと集中して見ていると、 パワーを贈ってくれます。
わたし、なんか怪しいですか。
でもほんとに元気になるんです。
なにもオオカミ男だけではありません。
満月の夜はお産も多いそうです。
宇宙はすごいです。
ぜひ一度、試してください。
そのときには眺めるんではなく、
月に吸込まれるかのように、月と交信するかのように
じーっと見つめてください。
まるで月に恋するかのように・・・。
きっとパワーを贈ってくれます。




◎8月 あそぶ 


随分ご無沙汰してしまいました。
いつ更新するかわからないのに何度も訪ねてきてくださった方、
ありがとうございます。
近況報告するのが苦手で、つい滞ってしまいます。
大きく変化する近況もなく、報告がとくにないというのもあります。
でもそれはある意味幸せなことでもあり、違う面からみれば
そろそろなにか動いたほうがいい、ということかもしれません。
最近気になることは、生活が仕事中心にまわっていて、
しかも途切れなくずっと繋がってしまって、
他のエッセンスが入ってこないということです。
こういうと、まるでたくさん働いているようですが、
そういう意味ではなくて、生活にメリハリがなくなっているということです。
私の場合は仕事場と住居が一緒なのと、だらだら性格が相まって
休みをうまく取り入れるのがむずかしい状況になっています。
つまり仕事が忙しくなくても、それ以外の時間を
まったく違うことに身を投じるというような、
上手な過ごし方がなかなかできないんです。
たとえば思いっきりヘトヘトになるまであそぶとか。
これ、じつはとても大切なことだと思います。
自分に他のエッセンスを入れる、日常と違う経験をする。
フリーランスになる前は、とく意識しなくても出来たのに、
フリーって難しいです。
今後の課題です。




◎5月 しごと 


どうやって集中したらいいんだろう。
このきもちいい季節に。
日々、緑が深くなっていくし、ポカポカしてるし、
どっか遊びに行きたくて落ち着かない。
でも仕事をほおって出かける勇気もなくて、
結局ボーッと中途半端な気分のままで、おちつかない一日を終える。
うー、これじゃあストレスたまるー。
というわけで、今日は日が沈む前の明るいうちに、
パンを買いに行く口実をつくって出かけることにした。
背中にぽわーんと日を浴びながら、ぼーっと歩いていると
体がゆるんできて、瞑想しているような気分になった。
おー、さっきまでの憂鬱がうそのように気持ちがふんわりしてきたぞ。
明日の食パンと、今食べる菓子パン(生クリーム入り)を買って、
公園のベンチに座って食べる。
だいぶ気分もよくなってきた。
でも家に戻ったら日も沈んで、もう仕事をする気がうせるだろう。
やばいなあ。
そしたらまた気持ちも低下する。
だめじゃん!
ふと、いいことを思いついた。
今日はもう終わりにして、好きなことやりきって、早めに晩ごはん食べて、
9時頃寝てしまって、明日5時に起きたらいいんだ。
よし、これを思いついたら急に気が楽になってたのしくなってきた。
喫茶店でコーヒーを一杯飲んで、100円のムーバスに乗って帰ってきた。
上思議なことに戻ってきたら出かける前より仕事がはかどって、
1週間後〆切の仕事を終えてしまった。



◎3月 春いちばん 


今年の冬はあったんだろうか。
って思うほど、身も縮むほどの寒さ味わってない。
なのに昨年より暖房費が上がっているのはなんでだろう。
年々寒がりになってるのかなあ。
春はもうすぐそこ。
桜のつぼみもゆるみ始めて、今週末は
どこもかしこも都内はお花見ムード満載だろう。
しかし昨日の強風はすごかった。
家が吹っ飛ぶんじゃないかと本気で心配したほど。
うちは木造だから臨場感たるやすごい。
春いちばんで家の下敷きにはなりたくない。
桜舞い散る木の下なら・・・。
って、なんかの唄にあったような。
私はいつも4月が一年の始まりのように思う。
青々した芽、木々の葉を目にすると、なんとなくいろんなことが
心機一転できるような気がして活力がわいてくる。
気のせいだとしてもそんな心持ちになれる春は気分がいい。
今年も桜がたのしみです。



◎2月 おどるカラオケ 


先日、あおきみと久々カラオケに行ったら
ぜんぜん歌えなくてびっくりした。
もともと大してうまくはないんだけど、
それに輪をかけてひどいのだ。
歌ってけっこう忘れてしまうようで、
どれ選んでもさび以外の細かいとこがあやしい。
おまけに口がもごもごしちゃって、ろれつが回らない。
これじゃよけいストレスたまるよ。
帰りしなあおきみと吊誉挽回しにまた来ようと誓い合った。
歌ってないとこんな歌えなくなるんだなあ。
ということで、1週間後また行ってきました、カラオケ。
こんどは、あおきみのダンナサマ、くにぞうもいっしょです。
禁煙ルームをおねがいしたらキッズルームに通された。
中はちょっと保育室っぽくなってて、靴を脱いで入る。
奥は床と壁がクッションで囲われてて、
ぶつかってもでんぐり返ししても痛くないようになっている。
よーし、いくぞー。ってやる気満々だ。
前回ダメダメでどんなんだったか聞き直してきた
スピッツは大分まともになった。
今回は口もちゃんと回ってる。
やっぱカラオケって歌いきれると気持ちいい。
そんでもって立って歌うとより気持ちがのってくる。
くにぞうは首にすじをたてシャウトして歌うのがかっこいい。
相変わらず上手なあおきみは、ラップ部分が出てくると
苦戦しながら必至に歌う姿がかわいらしい。
おもろい夫婦だ。
だんだん調子にのってきた私は、ジャンプしたり踊ったり。
しまいにはクッションで囲ってあるとこにいき、
頭をぐるんぐるん回してはげしく踊ってロック歌手風自由演技。
目が回って壁にごんごんぶつかる私を見て、
歌いながらあおきみが腹を抱えて泣いている。
4時間、完全燃焼した一夜だった。
いやー、歌っていいですねー。



◎1月 ありがたいおめでたい 


あけまして、おめでとうございます。
新年にむけて部屋を一掃したかったのに、年末なんやかんやと忙しく
手つかずであたらしい年を迎えてしまいました。
なので今、身の回りのことは目をつむり
心の中だけ一掃した気分をつくっています。
元旦から一週間なにも考えず、心も身体もゆっくりし
今週からまた目をつむりながら一週間仕事をしました。
そしてやっと現実に目をむけて、部屋のかたずけに手をつけられそう。
よーし、今年のテーマはシンプルなので、
思いっきり身の回りのものを少なくして
部屋も心も空間をたくさんつくって動きやすいようにするぞー。
新年っていろんなことがあってもこうして
新しい気分になれるからありがたい。
『ありがたい』は有ることが難しいという
釈迦が残した法句経の意味を、三蔵法師が訳した漢文が語源だそう。
『人の生を受くるは難く 限りある身の 今 命あるは 有り難し』
今生きている私たちは、実はこの世に生まれてくることが
本当に奇跡のような確率で、しかもどんな人間も
いずれ死の世界に行くことになっているわけだから、
今こうして生きているって状態が有ること自体難しい、有り難い。
ほんとにそうだ、生きてるから2007年迎えることができた。
だからやっぱり、いろいろあっても新年はありがたいしおめでたい。
ということで、粗雑な自分だけど今年もいただけた命、
ていねいに生きて少しでも成長できたらいいなあ。


2006年


◎12月 あたらしいってなんだろう 


ようやく銀杏の木が色づいてきました。
もうすぐ年の瀬というのに
へんな気分です。
年々暖冬が進んでいるをかんじます。
あたらしいっていうことについて
人と話をしました。
その人は、うつくしいもの、
誠実なものにはなんの興味もなくて
そこに毒がある、新しさがある
ということだけに惹かれるそうです。
私は、創った人が今感じていること、
それを伝えたい強い思いに触れたとき
惹かれます。
逆に新しさがあって、毒があって
一見魅力的にみえるものでも
創作した人の震えるなにか、感じているなにか
がないものには惹かれません。
一瞬のちいさな刺激はあっても心に残らないようです。
頭で考える以外のもの、意識の範囲をこえたもの
に興味があります。
人の数だけ、人が興味をもつこと、惹かれることはちがいます。
恋愛や、結婚する相手が人それぞれのように。
そして時間の経過とともに、それは変化し
また戻ったりするのかもしれません。
その人は、毒のあるもの、新しいもの以外興味がないのは
ずっと変わってないといってましたが。
私の場合は、今の自分という基準があるような気がします。
だから新しくて毒のあるもの、うつくしく誠実なもの、
その両方ともに惹かれるとき、どちらかのとき、
その時々の自分によっていろいろです。
ただ新しくて毒があるというだけでは
惹かれる威力はちいさいです。
今、自分が感じていることを頭でこねくり回すのではなく、
深く深く掘り下げたその自分の中に毒、ドクトクなもの、
アタラシイものがある、と思っているので、
今はその方向でいこうと思います。
案外ふたりの答えは同じとこにあるのかもしれません。



◎11月 かわったこと 


更新をごぶさたしていました。
毎年、夏が終わると年末になっています。
ここ数カ月のことを思いだそうとしても
起った出来事については、主要なことひとつも
ぱっとは思い浮かびません。
いっこいっこ辿っていけば出てくるかもしれないけど
自分のなかで大きかったことは何か、
とか思い浮かばないのです。

ただひとつ、さいきん気をつけていて
少しずつ変化していることがあります。
それは「ありがとう《を唱えること。
あおきみからおしえてもらった本、
野坂礼子さん著書の数冊を読んで実践しているんです。
これはうれしいときはもちろんのこと、
つらくて感謝できない気持ちのときも
心の中は憎しみのままでいいから「ありがとう《と
いえばいいのだそう。(声にださなくても)
「ありがとうございます行《は格闘家の須藤元気もやっていて
なんと四国八十八カ所巡礼で何十万回(忘れました)唱えたと
テレビでいってました。
この本いわく、
「我《というのは自分の好都合を求める小さな計算、計画で、
その範疇で暮らしている間は、本物の幸せにはなれない、
じゃあどうしたらその「我《から離れられるかというと
「ありがとうございます《を唱えればいい、
ということらしい。
とくに共感した部分は、
はじめは心の中に感謝の気持ちがなくてもいいから、
ただ唱えることそのものに気持ちを集中させていればいい、
というとこ。
なぜ共感したかというと、本のとおりやっていると
そのうち少しずつ落ち着いてきて、ほんとにあたたかい気分になるし、
今までとはちがったいい方向に流れていくからです。
なにより気分がいい。
唱えることに集中することで、無我夢中という状態になって
アルファ波がでるから体が必要な動きをしてくれる、
それでアイデア、直感、ひらめきが湧き上がる、
だそうです。
「我《を出して、ああしよう、こうしようと考えていない状態。
般若心経のあるがまま、無になるというのに通じると思いました。
個人的な欲求もかなり少なくなるそうだけど、
私の場合まだそこまで鍛練されてません。
でも秋のせいか、異常な食の欲求が抑えられないとき唱えてます。
これ、けっこうききます。



◎8月 夏やすみ 


ながーい梅雨が明けたけれど東京はやけに涼しい。
祖母の1周忌を終え、おととい九州から戻ったばかりだから
よけい高原にでもいるような気分になる。
かなしいかな気温だけだけれど。
真っ青な空ともくもくの入道雲、これぞ日本の夏やすみ
ってかんじがするのは、子どもの頃いつもこの時期、
九州の祖父母の家にいっていたからだ。
おとなになった今でもいとこや子どもたちと
海へ山へ遊びにいって、夏やすみを満喫してきた。
祖母からのプレゼントのようだ。
いとこが雨どいでそうめん流しを作った。
庭の水道の蛇口から水を引き、雨どいをジョイントで
くねくねさせて池まで引く。
雨どいの最終地点にはカゴをおいて、とりきれなかった
そうめんがそこに溜まるようになっている。
ある程度たまったらまた先端から流すというわけ。
これならそうめんももったいなくない。
というか最後の人までいっても、そう簡単に流れてくる
そうめん全部はとりきれないのだ。
こうしてそうめんは循環してくれることがわかっているのに
目の前に流れてくるとなぜかとらずにはいられず、
食べることを忘れて夢中で捕獲作業をしてしまう。
だから器の中がすぐいっぱいになる。
生まれて初めての体験にワクワクがとまらないのだ。
雨どいの角度がまた重要で、あまり急斜面だと
そうめんが早く流れすぎてなかなか掴めないし、
といって緩斜面でも簡単にとれてスリルがない。
そしてつゆのはいった器に入れる氷も
そうめんをおいしくする大切な要素。
山の湧き水でやるそうめん流しではないから、
真っ青な空の下、汗をかきながら食べるそうめんが
なまあたたかいほど気持ちわるいものはない。
つゆさえ冷たくしておけば、なんとおいしいことか。
また流れてくるそうめんを獲得しながら食べるという作業の
なんとたのしいことか。
べつになんてことはない、食べものが流れてくるだけなのに。
人っておもしろいこと考えるなあ。



◎7月 ながい梅雨 


6月の後半はイギリスへ旅に出ていた。
帰国したら初夏を味わうことなく、亜熱帯地方に来たような湿度で
身体がびっくりしている。
連日30度をかるくこえ、酸欠になりそうな暑さで
あんまり梅雨らしくもなくて水上足は大丈夫だろうか
と思っていたら、こんどは全国的にすごい豪雨だ。
どうなっちゃってるんだろう、ニッポン。
でもこの異常気象、ぜんぶわたしたちがしたことなんだよなあ。
やったことはいずれかえってくる。
宇宙の法則のようだ。
20代のころは、環境問題っていうとすごく広くて大きくて
まるでどこかの誰かの問題のように、
どこかがどうにか解決する問題のように、
遠くに思っていた。
自分の体の中で、目に見える問題だけ解決して、
そのしわ寄せが目の届かない遠い場所で起っていても、
感覚が麻痺していて体が繋がっていることに気がつかず、
傷ついていることを知らなかった。
そこも自分の体の一部だとは思ってもいなかった。

すべては繋がっている。
自分の5メートル以内で起ったことは、
地球、宇宙と繋がっている。
宇宙、地球で起きていることは、
自分と繋がっている。
動物、昆虫、椊物、すべて生きもの、
目に見えるもの、見えないもの、
自分が知らないもの、できごと、
すべてが自分と繋がっている。
はずかしながら最近やっとそのことを実感できるようになった。
ムッとしていたりしないで、にこやかに笑っていたい。
自分がいやな気持ちになりたくないように
人をいやな気持ちにさせたくない。
散らかった場所にいるとイライラしてくる。
心地いい場所にいると心がしずまってくる。
自分のまわり、自分に繋がっているもの、
自分の環境を自分がどうしたいか。
繋がっていることをかんじて、
自分が動くすべての数メートル内、自分を取りまくもの、事柄を
気持ちよくしていったら、きっとその環境は宇宙と繋がっていく。
問題の答えは、ほんとに身近にあるんだと思う。



◎5月 あたまの底のさびしい歌 


ひさびさに、宮沢賢治の童話を読んだ。
あらめて読んでみるとすごくすきなことに気づいた。
読んだ後、ふしぎと気持ちがおちつく。
どこがというとむずかしいけれど、どれも達観した目線のように思う。
童話の中で起こる出来事、事件を、感情移入しすぎず淡々とえがいている。
そこに、よけい人の淋しさや空しさを漂わせるのだけど、
読者をそこに留まらせないようにしている気がする。
物語の骨子は、もっと奥深いところを見据えていて、
その先にあるなにかに誘導していく。
するとしだいにあきらめのような感情がわいてきて、
さっきまであった淋しさや空しさから抜けでている。
こうしてその感情をすこし離れた場所からながめると
今度は目の前に、うっすら光った道がみえてくる。

苦しみの中で、いやだいやだともがいて抜け出そうと力むより
あきらめて苦しみを受けることをゆるしてみたら
ふーっと肩の力がぬけたみたいな感覚。
結局、日々起こるどんな出来事も、あるがまま受けとめる以上の力は
人間にはなく、ただ生きていくしかないのだ、
起こった出来事になにかがあるのではなく、
生きすすんでいくことに、なにかがあるといいたいのだろうか。
あった出来事をなかったことにすることはできず、
もう無理だと思うときもあれば、まだできると思うこともある。
どちらにしろ、死なないかぎりは生きていく。
だから、ただただ生きればいい。
それだけでたいへんなんだから、それで充分じゃないか、と。

仕事で、賢治が生前残した手紙に、絵をそえて構成した本をつくることになり、
手紙を読んでみて紊得した。
そこには、家族や友人にあてた肉迫した熱い思いがあふれていた。
ほんとうはどういう性格だったのかはわからないが、
手紙の中の姿は、せつなく苦しそうだった。
同時に、彼も生きるのにこんな苦しんでいたんだと思ったら安心した。
法華経に傾倒していて、友人を熱心に勧誘している。
苦しみの真理をさぐろうとしていたのかもしれない。
彼もまた、童話を書きながら、物事に迷わされずその真理をみきわめて、
どうなろうとも動じない心境になりたかったのかもしれない。
手紙の中の言葉が、そのまま本のタイトル「あたまの底のさびしい歌《になった。



◎4月 ぽわーんとしたい季節です 


最近やっといろんなことが片付いてきてほっとしているところ。
原画展も無事開催することができて、美術同人誌「四月と十月《
表紙も無事入稿して、滑り込みで四月中になんとか刷り上がる。
あーよかった。
こうして一年の3分の1が過ぎていく。
ゆっくり散歩でもして春の芽生えをたしかめたい。
ちいさなバルコニーとベランダに椊えている花や葉が
活気を帯びだして日々変化しているのにおどろく。
冬にバンジーを近所の園芸店で購入した。
なにか絵のモチーフになる花はないかと見ていたら
ひと箱500円という安価で売っていたので、なんの気なしに買った。
些細なきっかけだったが、毎朝窓を開けると目にとびこんでくる
椊物がこんなにもうきうきさせてくれるとは思わなかった。
椊物に力をもらいながら、すこしずつ冬眠から覚めている
今日この頃です。



◎2月 梅もほころぶ 


荒川静香選手が、金メダルをとりました。
一日中フリーの演技を放映してたので、
なんどもなんども観てしまった。
うつくしい姿は何回観ても見飽きない。
わたしもそんな作品つくりたいなあ。
こんどスケート場に行きたいねえと盛り上がった。
イナバウアー、やってみたい。
いま行ったら、ぜったい試してる人いると思う。
ちなみに部屋でやってみたら、胸のあたりで
ぼきっといった。



◎1月 プラスいちねん 











さて新年。
昔はこの時期になるとこう思っていた。
今年はどんな年になるんだろう。
それには夢と上安がいりまじっていた。
でもそれが少しずつ変わってきた。
この1年をどんなふうにしたいんだろう、わたし。
そして今。
この1年をどんなふうにしよう。

前は現実をオブラートに包んで、理想的な世界を膨らませ
なにかをリアルに考えて具体化することはさけていた。
自分が今の時点で考えていることなんかを
かたちにするのは小さくまとまる気がした。
その場その場で起こったできごとに対応して、
なるべく流れに身をまかせるようにした。
どうしたいのかはあまり重要ではなかった。
そうすることで自分の容量をふやしたかった。
でもそれは時に重荷になり、負担になった。

ところが着々と年を重ねることで、いやがおうでも
いろんなことが具体化されてきた。
自分ができることと、できないこと。
自分がたのしめることと、たのしめないこと。
自分がやりたいこと、やりたくないこと。
どうでもいいこと、よくないこと。
自分の癖、質(たち)、性(さが)のようなもの。
そして命が絶えるまでの時間。
容量もわかった。
限界がみえてくると、なんと楽なことか。
大きさが把握できて、脹らませることも、
ぐっと焦点をあわせることもできる。
だからどんなふうにしようという具体的なことに
気持ちがかわってきたんだと思う。
自分主体だし、ずいぶん前向きである。

今日できることをして、生きることをたのしむことは
自分を強くするし、自信になる。
年を重ねることは、ありがたい。


2005年


◎12月 青春18きっぷ 


今、いとへんギャラリーで開催されている「四月と十月《展の
オープニングパーティに大阪まで行ってきた。
青春18きっぷを使って。
期間限定で、全国のJRが1日乗り放題の切符が
5回分11,500円で発売されているきっぷで、
普通列車、快速列車に乗れる。
これって18歳までしか使えないと思っている人が多い。
私もそうだった。
一度使ってみたかった。
今回ちょうど発売期間だったので、大阪行き以外にも
冬の列車の旅にでかけようと思い、購入することにした。
ほんとは昼間に乗りたかったけれど結局
古墳部と同じパターンで東京23:43発の夜行列車、
ムーンライトながら号で行くことになった。
大船から乗り込んだ編集長牧野氏と、酒とつまみで
しばし談笑し、酒がほどよくまわってきたころ牧野寝入る。
でも結局私は眠れず、車内散歩に出かけることにした。
青春18きっぷ期間なので、車内は満席で
みんな様々な格好をしてみごとに眠っていた。
先頭車両へ行くと、当たり前だが運転手だけが起きていて
前を見据えて運転中。
私もそこで、しばし線路をながめることにした。
終電車が行った後の線路は、周りの情景すべてが
止まっていて、へんな光景だ。
夜走る電車の風景と、深夜とはまるっきり違う。
時間が止まった中を、自分だけの時間が進んでいる。
ワープしてトンネルをすり抜けるようなかんじ。
深夜の街散歩に似ているな。
1時間ほど眺めていたら、豊橋駅に着いた。
停車時間は30分、車外に出てみることにした。
階段を上がり、改札まで行くと、車外にでたお客が
2、3人いるだけで閑散としている。
なんか、にせものの駅みたい。
今度はホームの端から端まで歩いてみることにする。
一番後ろのその先で工事の人たちが、働いている。
外からながら号を眺めると、満席の車内はまるで
睡眠薬でも飲まされたままどこかにそっと運ばれていく
人々を積んでいるようにみえて、どきどきした。
私もその中に加わろうと、車内に戻ってひと眠りする。
ふと起きると5時頃だろうか、辺りが真っ白けだ。
まだ寝静まった街にしずかに雪がおちていた。



◎11月 紅葉いろんなところで 


紅葉を見に山の方へ行きたくて、
10月くらいからそわそわしていました。
それでどんどん計画して、今月は毎週末でいそいそと
出かけてました。
暖冬ため遅かったようで、信州のほうは11月上旬でも
とてもきれいでした。
海派と山派があるようですが、どちらかといえば
私は山派です。
海へ行くと、すかーっとした清々しい気分になって
山は、すごく落ち着いた気分になり心が安心する感じ。
山というか、木々の中にいるのがすきなんです。
それで、近くの武蔵小金井公園もよく散歩します。
この公園はすごくひろくて古木も多く、
まるで森の中にはいったような気分になるんです。
木に囲まれた森のようなところにある家に
住んでいる夢を時々みます。
その状況やテラスの風景は、けっこうリアルで、
先日那須に住んでいる友だちの家に行ったら
風景が似ていたのでびっくりしました。
いつかそんなところに住むのかもしれません。




◎9月 中秋の吊月 


朝晩、めっきり涼しくなってきた。
あっという間に夏も終わってしまったなあ。
夏ばてって夏になるんだと思ってたら、
夏の暑さでたまった疲れが、秋にどっと出ることを
夏ばてっていうんだよ、と昔、人にいわれた。
なるほどそうか、私はこの季節いつも体調がすぐれない。
一番つらいのが熟睡できないこと。
2〜3時間ごとに目が覚めるし、夜中に必ずといっていいほど
一度ふとんから出て完全に起きている。
こうなると、次の眠気が訪れるまでただひたすら待つしかない。
正確にいうと、眠気はあるのに身体の上具合が勝って
眠りにおちていけないというかんじ。
でもその時期が過ぎると、ひと皮むけたように身体がすっきりして
食欲も大盛になり、きもちよく熟睡できる。
あおきみ著の「ずぼらな青木さんの冷えとり毎日《によると、
春と秋は毒出しの季節なんだそうだ。
だから安心して、どんどん体にたまった悪いものを出そうと
大掃除気分で、苦しいながらもたのしむことにしている。
ここ最近は、夜中目が覚めるとしばらくソファでぼーっとしたり
本を読んだり、ベランダへ出て夜風にあたったりして過している。
そのおかげで今更ながら、この時期の月がことさら美しいことに気がついた。
中秋の吊月とはこのことか・・・。
この年になって、吊月という言葉をふかく実感してしまった。
なんて輝いてるんだろう、まぶしくて目がしゅわしゅわしてくる。
東の月、真上の月、西の月、ほぼすべての角度を毎夜堪能している。
月を見ていると気がへんになってくる、というのもすこしわかってきた。




◎8月 夏ですね。


大分ごぶさたしてしまいました。
この夏は、7月の夜行バスを使った強行日帰り京都、神戸にはじまり
美術同人誌「四月と十月《の第4回古墳部研究旅行で岡山(これも夜行列車)
その前後に瀬戸内の頭島、直島、先週の九州となにかと移動が多いです。
旅は大好きなので、夏っぽくてうれしいです。
そして今、来月の展覧会にむけ陶芸家のくまがいさんのアトリエに通い
粘土をこねる日々を送っています。
私が造った立体に、あおきみがカタカナやアルファベットの単語を
判子で印し、くまがいさんが釉薬を塗って釜に入れます。
また、くまがいさんが造った形に、あおきみが単語を印し
私が線を引いたり、型を押したり。
焼き上がった作品は、こうしていろんな歩みを経て、新しいかたちとなり
私達の前に現れます。
それは自分の想像したことだったり、思いもつかぬことだったり。
こうして、まさにコラボレーションの醍醐味を味わっています。
いつもは自分の制作物がどのように変化していくか確認できるのに
この把握しきれない進行は、あれやこれやつい頭で考えてしまう呪縛から解放し、
かえって自分を気楽にしてくれて、のびのびと作ることをたのしさを
教えてくれます。
そしてもうひとつの最大のたのしみが、くまちゃんの作るごはん。
あらかじめ自宅で作ったものを毎朝アトリエに運び、
夜くまちゃん作の器で、ビールとともにいただきます。
米ひと粒ひと粒、野菜ひとつひとつ、くまちゃんの人柄と愛が感じられて
しあわせな気持ちになります。
素朴で押しは強くなく、でもしっかりした、やさしい味。
疲れもふっとび、感謝のきもちとともに、自然とがんばろーって思うのです。
食べ物の力ってすごい。
これから2週間は、最後の釜入れに向かってラストスパート。
展覧会「ちいさなかたち《ぜひ観にいらしてください。





◎5月 ぼーっと散歩など


「エトコトバ《展覧会が終わり、あっという間に1ヶ月たってしまった。
いろんなことを整理するのが、なにをやっても遅くて遅くて。
なんかテキパキできない。
やりたい気持ちはあるのに、なんか身体に力がはいらないので
なりゆきにまかせて、時間をゆっくりやり過ごしている。
でもほんとは、部屋を根本からうつくしくして、生活風景をかえたい、今すごく。
どこか旅行に行きたい気分だったのに、それすらも腰が重いので
どこも行かずに旅行気分だけ味わおうと試みる。
どうするかというと、簡単、だらだらする。
散歩も復活、プールも1週間に1回程度。まずは体力回復から。
展覧会もぼちぼち。
ゴッホ展、佐野繁次郎展、ラ・トュ−ル展、今日はタピエス展に行ってきた。
ラ・トュ−ル展はすばらしかった。
興味のあるなしを越えて、すごいものにはなにか共通言語のようなのがあって、
聞いてないふりしても知らぬ間にぐっと心をつかまれてしまう。
あのぞっーとするような絵、作家の性格までのぞき見てしまったような感覚。
入場券って高いなあっていつも思うけど、こういう日はすごく得した気分になる。
ああいう作品を残したいと思う。
タピエスは、私の中でいまだバルセロナ財団の衝撃が勝ってしまっている。
でも今回はビデオ上映がみれたのでよかった。
カタロニアの土を思い出して、肌がかさかさ舌がざらざらしてきた。
あっ、吉田戦車の「なめこインサマー《、ロッキング・オン編集長、山崎洋一郎の
「激刊!山崎《もさいこーです。
しかし、なんといっても今ぜったいすごいのは
エレカシのライヴ「すまねえ魂2005《。
人が波にのっている場に立ち会えることは、貴重な体験だと思う。
とても刺激になる。
って、こうしてみるとぼーっとしてるとはいえ、結構あそんでるか、よしよし。
どんどんいってみよーう!





◎4月 春がきた!


私にとっては、急に春が訪れたかんじです。
というのも、はじめての本格的な展覧会が
いよいよ明日からはじまるからです。

コラボレーションする「コトバ《の青木美詠子さん、
通称あおきみと何度となく打ち合わせを重ねてきました。
お昼頃、あおきみがアトリエにやってきて
言葉と絵を組み合わせたり、選んだり、なんやらかんやらで
あっという間に、いつも終電の時間です。

本もつくりました。
そんなんで、風のように月日はすぎてしまったのです。
それも今日無事搬入を終え、後はお客さまを待つのみです。

アトリエで格闘していた作品も、こうしてコトバとともに並べられると
情景がより広がってきます。
あおきみの気持ちがみている風景と私のとは、ちがうのだけど
どこかとどこかが微妙に重なっていて、別の角度から別の次元で
自分の心の情景をみることができる、というかんじです。
コラボレーションはおもしろい!
これを見る人は、また違う角度から見るのかもしれない。
ぜひ体験しにいらしてください。
そして、それを本という形でお持ち帰りも出来ます。(定価一千円)

春は展覧会シーズンで私自身でさえ、見に行きたいとこが
たくさんあるけれど、これから1週間は作品を通して
そんな出会いがたのしみです。
そしてすでに、もう次にやりたいことが浮かんできて
ワクワクしています。
疲れ果ててボロボロなのに。
残念なのは、なぜか明日からという実感がわかないということ。
気持ちがどこかフワッと浮遊してるかんじなんです。
そんなものなのかなあ。
ずっと在廊しますので、お声をおかけください。





◎3月 アトリエ逃亡者のゆくえ






焼き上がった埴輪を受け取る。
暮れに、同人誌『四月と十月』の古墳部で
さきたま古墳へ行き作ったものです。
これ、馬のつもり。
実物はこんな無気味ではないのだけど・・・。
なんか自分に似ているような気がする。





先週はアトリエから逃げるように、展覧会に行きまくった。
やる気が出ない時はしかたなし。と、言い聞かせ意気揚々とお出かけ。
私がよくやる手。そして最終手段は上野の東京国立博物館。
ここは大学時代の古巣なので、こんな時いちばん落ち着く。

今、唐招提寺展をやっている。
金堂の平成大修理のため、ご本尊が寺外最初で最後のお出まし。
奈良の唐招提寺では何度か拝観したけれど、本来は遠くからしか観れないし
今回のように裏にまわって背後からなんてことはできない。
私は金堂自体がすごく好きなので、いつも建物の印象が強く残って
あまり盧舎那仏坐像や梵天、帝釈天立像や四天王立像をみていなかった気がする。
今回も後半展示の金堂解体記録写真のほうが興味深かった。
屋根のうつくしいこと!
屋根瓦がとりはらわれて現われた、何本もの木によって構成された骨組は
人間業とは思えない・・・。
今から何百年も前、機械もない天平の時代にどのように計算されて、
どうやって人力だけで創ってしまったんだろう。
根気のいる作業だろうなあ、うーん、私にはむいてない。
誰も頼まないだろうけれど。

しかし、鑑真和上さんもすごい。
12年にもわたって5回の失敗を繰り返しおまけに失明までして、
戒律を広めるために日本に渡ってくるなんて。
上屈だ、爪の垢でも煎じなければ。
鑑真和上坐像を拝観しながら、静かにうけとめた・・・。
今日はよばれていたのだな、と思う。







まだ時間があったので、法隆寺宝物館にも立ち寄る。
ここは本館とならんで好きな場所。(しかし平成館、あのシャンデリアは・・・)
照明をぐっと抑えた広い空間に、たくさんの小さな菩薩像が
細い柱のように凛とたち並ぶ。
森の奥深くに来たような気分になる。
人が少ないせいか(私しかいない)温度と湿度の調整がばつぐんなかんじ。
宝物の館にいるんだ、私・・・。
それで体にすーっといい空気が流れて、森林浴みたいな気分になるんだと思う。
菩薩様の気かもしれない。
それでいつもぼーっとしてしまって、じっくり観たことがないので
今回はひとつひとつじーっとお顔を拝見した。

おもしろい像を発見した。
如来倚像。如来様が台に腰掛けて両足をぶらーんとさせている。
立像や、半跏像(台に腰掛けて右足を左ひざ上に組んでいる)は
よく観るけれど、両足ぶらーんは初めて観た。
なんともリラックスしたかんじで、こちらまでふっと気がぬける。
ときどき観にこよう。

















帰り、いつものハヤシライスを精養軒で食べて、ESTに行ってみた。
中には入らず、あの人を偲んでスケッチをした。
こんな外観だったんだ。
つい強いのを飲み過ぎて、いつも酔っぱらってたからなあ。
雨がポツポツ。
線がにじんで、ESTが泣いているような絵になった。








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